第四十一話

「協定・・・それは一体、どういう事だ」
「簡単な話よ、互いの目的を邪魔し合わない、つまりぶつかり合わないっていう取り決めをしたのよ」
真悠美は大網の隣に崩れるように座った。
「『海角協定』ってね。あちらさんの海域利用に目をつむる代わりに、あたしらは『角』の一つに匹敵する実力を持った組織として認めてもらってるわけ」
「『角』・・・?角とは一体何だ?」
「あららぁ、先生のくせに何も知らないのぉ?フフフ・・・」
真悠美は笑ったまま答えなかった。田児はニヤニヤしながら雷霊雲の顔を見た。
「そういうことだからさ、先生、ドラゴナの連中について、俺たちがこれ以上口を割る訳にはいかんのよ。諦めて海の旅を楽しむ事でしゃ」



「・・・う」
天希は目を覚ました。
「ここは・・・」
やや視界がぼやけていたが、天希にとっては見慣れた色合いだった。天希は体を起こしつつ、自分の肌と床板がすれる音に耳を傾けていた。
「あら、起きたのね」
ドアの開く音がした。振り向くと、そこには人の影があった。
「母さん・・・!」
天希はつぶやいた。と同時に、彼は突然目を鋭くして、その人影に飛びかかった。
「おっと」
人影は何の迷いもなく、飛びかかってくる天希の額に指を伸ばし、縦に軽く叩いた。
「!?」
瞬間、天希の視界が傾き、上下が分からなくなった。天希は勢いを失い、その場所に転がってしまった。
「やっとデラストを手に入れたようね、上出来だわ。でも、母ちゃんを倒すには10年早いわよ、ひよっ子ちゃん」
天希は手探りで地面を確認し、顔を上げた。そこには、6年前とさして変わらぬ母親の姿があった。
「おかえり」
真悠美は天希に微笑みかけた。雷霊雲が船長室を訪れてから30分と経たないうちの出来事だった。

「『波動』のデラスト・・・?」
「へい。何でも、おおよそ波と呼べるものはどんなものでも操れるっていうのが、本人のおっしゃってた事で」
雷霊雲は、田児の他に可朗、君六達とともに廊下を歩いていた。
「船を動かす時ゃ大網さん1人で十分なんですが、姐さんもまたすげえ力をお持ちでして。ピターッと止むんですわ、波が」
「へえ・・・」
「後は、姐さんにこう、頭をコツーンって叩かれると、誰でも一発で寝ちまうんですわ。天希坊なんかはいつもそれで静かにさせてたんです。さっき酔っぱらってたのも、自分の頭をコツーンってして、それでサッパリ覚めちまうらしいんですわ」
「・・・脳波だな。人の頭も波で動いてる」
一同は納得したようなしてないような頷き方をした。
「とすれば、波を『読んで』我々の居場所を把握していたのは、真悠美さんの方だったか」
「ふ、夫婦連携ってことかな・・・すごいね・・・」
君六は隣にいる可朗にかろうじて聞こえる声でぼそぼそとつぶやいた。雷霊雲は急に立ち止まり、田児の方を見た。その言葉が出る前に田児が目を丸くして睨み返したので、雷霊雲は逆に驚かされ、何かに叩かれたように言葉を吐き出した。
「我々をこの後どうするつもりだ」
田児の足は止まらなかった。
「大網さん次第って所ですかね。俺ら以外の人間を船に乗せるなんて、そうあることじゃねえですし」
そう言って田児はトイレに入って行った。

天希のいた部屋から出てきたばかりの真悠美に、カレンは話しかけた。
「あの、天希君の、お母様、なんですよね・・・」
「あらあら。さっきはごめんね、船に女が増えるとあたしつい嬉しくなっちゃってさ〜」
「いえ、大丈夫です!気にしてませんから・・・」
「あらそう。フフ、面白い子・・・」
そう言って真悠美は馴れ馴れしい手つきでカレンの頭をなでた。カレンは少し恥ずかしげにうつむいた。
「あら?この感触、なんか覚えがあるわね・・・」
それを聞いて、カレンは顔を上げた。
「そうです!私、エルデラの妹のカレンです・・・!あの、兄さんが海に落ちたはずなんです。それで、今どこにいるか教えてください・・・」
真悠美はそれを聞いて少し固まったが、間も無く大笑いし出した。
「あっはは、本当に!?あんたがカレンちゃん?すごいメンバーねえ!何、エルデラまでいるの?ははは、そう!」
エルデラの名を聞いて、海賊の下っ端が集まってきた。
「ふーん、そう、エルデラまでねぇ・・・本当に面白いわ・・・残念だけども、この船には拾われてないわね。海の波を見ても、それらしき反応はないわ」
「えっ?それって・・・どういう事ですか・・・?」
「どういうことって言われても、あたしゃ知らないわよ。どっかの島にでも降りたのかしらねえ。さすがに海の真上を移動されたらあたしにも分からないわよ」
「で、でも・・・」
「あいつもひさしぶりに顔出せばいいのに。どのくらい大きくなったのか見てみたいもんだわ。ねぇ、天希?」
真悠美は振り返ったが、部屋に天希の気配はなかった。
「あら?」

外は雨が降っていた。奥華は甲板の隅で縮こまっていた。
「・・・あたし」
奥華は、雨に濡れた自分の右手の平を眺めていた。滴が降り、肌を伝い、流れていく様を何十分も眺めていた。空の様子は不安定で、雨が弱くなったり、晴れたりもしたが、奥華はそのまま動かなかった。やがてまた雨が降り出した。奥華は突然、左肩を押さえた。床を流れる雨水に、自分の顔が映っているのを見た。雨の波紋でゆがんで見えたが、そこにある顔は、ただ暗い表情をしただけの、いつもの自分の顔だった。
「・・・違うでしょ」
奥華は映った自分の像に向かって話しかけた。
「出てきてよ・・・誰なの?あたしの中にいて、あたしじゃない誰か・・・」
雨が止み、水面は彼女の普段通りの姿を、さっきよりもはっきりと映した。
「・・・」
曇った空がかすかに光った。
「・・・いないよね、そんなの。あたしがただおかしな子なだけだよね・・・」
そう言って顔を伏せたが、すぐに顔を上げて叫んだ。
「嘘つかないでよ!」
それと同時に雷が鳴り、さっきより強い雨がどっと降り出した。
「天希君のお兄さんの前でも出てきたじゃん、隠れてないで出てきてよ、ねえ!」
当然、返事はない。雨が床を強く打ち、映っていた奥華の姿は形が分からなくなるほどにゆがんでいった。奥華にはそれが、自分が形をとどめぬ怪物の姿に変貌していく様に見えて、恐ろしくなりその場にさらに縮こまった。
「嫌、嫌だ・・・嫌だよ・・・」
一度奥華を呼ぶ声がした。しかしその声は雷鳴にかき消され、彼女の耳には届かなかった。
「奥華ー!」
二度目のその声は奥華の耳にはっきりと届いた。思わず顔を上げると、すでに目の前にその姿があった。奥華は思わず立ち上がった。
「あ、天希君?」
「どうしたんだよ、こんな所で。風邪引くぞ」
「か、風邪?大丈夫だよ、あたしのデラストは水を操るんだよ、引くんだったらとっくに引いてるよ」
「そっか、確かにそうだよな!」
自分のわけの分からない理屈に納得されたのが、奥華は少し悔しかった。
「うわー、すっげー雨!転んだらそのまま海に滑り落ちそうだな!」
「う、うん・・・」
奥華はまた暗い顔になった。
「ん?どうしたんだ?」
「・・・天希君。あたしって、誰だか分かる・・・?」
「えっ?お前奥華だろ?そんなの決まってるじゃん!奥華・・・えーと、なんだっけ苗字」
「本当に?本当にあたしなの?あたしはあたしなの?」
「え?どういう意味だ?俺なぞなぞみたいなの分からねえぞ・・・あっ分かった、お前ドッペルだろ!奥華に化けたドッペルだろ!」
天希は自信満々に指をさした。奥華は少し笑って、顔に影を落とした。
「・・・そうかもしれないね」
「・・・?」
奥華は2歩ほど前に出た。
「・・・どうしよう」
「何が?」
「天希君・・・もしあたしがあたしじゃなかったら、どうしよう・・・!」
奥華は顔を上げた。泣いていた。
「お、奥華?」
「ねえ天希君、あたし嘘ついてきたのかもしれない。自分で自分が誰だかわからないのに、学校のみんなにも、ネロっちにも、天希にも、あたしはあたしみたいに振る舞ってたのかもしれない・・・!」
奥華は肩を震わせて泣きはじめた。天希は混乱したが、奥華の方に寄り、肩を叩いて言った。
「じゃあなおさら、奥華は奥華じゃんか」
「・・・えっ?」
「俺にとっても可朗にとっても、みんなにとっても、お前は奥華だし・・・アダ名とかで呼ばれたことないだろ?じゃあやっぱり奥華は奥華で、えーっと・・・他の誰かじゃないだろ?」
「・・・」
「んんん?自分でも何言ってるかさっぱりわかんねえ!とりあえず奥華は奥華だ!難しい事は無しっ!俺がわかんねえから!」
そう言って天希は突然、奥華の右手を握って走り出した。
「えっ?ちょ・・・!」
天希は船首の床扉の所まで走ってきて、雨水に浸された扉を開けようとした。しかし、扉は開かない。
「あれ・・・?」
天希は奥華の手を放し、両手で取っ手を握って開けようと踏ん張ったが、扉はびくともしなかった。
「うわーっ!閉め出された!」
天希は頭を抱えて叫んだ。そして奥華の方を苦笑いしながら振り向いた。
「これ・・・雨が止むまで開けてくれねえぞ・・・はは」
その時奥華は初めて気がついた。天希の髪も雨に濡れて垂れ下がっていたのだ。奥華はここにいる天希も当然びしょぬれになっているという事に、今の今まで気がつかなかったのだ。
「・・・天希君」
今度は奥華が天希の手を引いて、船の反対側まで走っていった。
「お、おい、奥華?」
二人は船尾の、少し屋根の出ている下まで来て、そこで雨宿りをした。
「ここか。それにしても雨すげーな・・・」
直後に天希はくしゃみをした。
「あ、天希君、大丈夫!?」
「んあ、平気だよ・・・」
奥華は首を横に振ると、天希の方に手を向けた。すると、天希の髪や服についていた水が、天希の体から離れて行った。
「これで大丈夫・・・!」
「おおっ、すげえ!ありがとな奥華!」
奥華はついでに足元の水を掃けた。二人はそこに座り込んだ。
「ごめんね天希君、こんな所まで探させちゃって・・・」
天希は何て事ないと言った表情で奥華の方を向いた。
「今度から心配かけさせんなよ」
そう言って天希は笑いかけた。奥華も笑い返したが、疲れが見えていた。少し会話の無い間が続くと、奥華は眠くなり、そのまま目をつぶった。雨で冷え切った彼女の体は、自然と天希の方へ吸い込まれるように寄った。
(あったかい・・・)
睡眠に向かう意識の中で、彼女はただそう思った。奥華はとても心地よくなり、そのまま眠ってしまった。天希もいつのまにか居眠りしていた。雨はいつしか止み、船は静かに海の上を進んでいった。



「・・・それで」
可朗は呆れたように言った。
「いやあ、それだけ!起きたら雨止んでたしな」
雷霊雲に与えられた部屋から出てきたのは、ピンピンしている天希と、今にも倒れそうな足取りの奥華だった。部屋の方からは雷霊雲の声がした。
「おい奥華、お前は寝てろ。隣のバカは熱が出ても平気だが、お前はダメだ」
そう言って奥華の手を掴み、部屋へ引き戻した。ドアが勢い良く閉まった。
「まったく・・・バカは風邪引かないって言うけど、その話じゃどっちがどっちだか分からんよ・・・」
可朗はため息をつきながら言った。
「ん?どういうことだ?」
「どうでも・・・それにしても、奥華のやつも幸せ者だよな、まったく」
そう言って可朗は立ち去ろうとした。
「おい可朗」
天希は可朗を呼び止めた。
「何?」
「俺、誰だか分かる?」
それを聞いて、可朗はさらに呆れた顔をした。
「・・・もみじまんじゅうの妖精、じゃない?」
「は・・・?」
可朗はゆっくりと立ち去った。









つずく

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